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イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (ムーロム公) : ミニ英和和英辞書
イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (ムーロム公)[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (ムーロム公) : ウィキペディア日本語版
イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (ムーロム公)[こう]
イジャスラフ・ウラジミロヴィチ(、? - 1096年9月6日)は、キエフ大公ウラジーミル2世モノマフギータとの間に生まれた二番目の子である。クルスク公:? - 1095年ムーロム公:1095年 - 1096年。
1094年、イジャスラフの父のモノマフはチェルニゴフのオレグ(ru)を攻めた。イジャスラフは1095年に、クルスクからオレグの所有していたムーロムへと移った。
チェルニゴフからオレグを追放した後、モノマフとスヴャトポルク2世は、キエフペレヤスラヴリポロヴェツ族に襲撃されたが〔國本哲男『ロシア原初年代記』251頁〕、1096年のトルベジュ川の戦いでポロヴェツ族のハントゥゴルカンに決定的な打撃を与え〔國本哲男『ロシア原初年代記』252頁〕、ルーシへのポロヴェツ族の進入を止めることに成功した。一方、この機にオレグはスモレンスクで軍勢を集め、ムーロムへと進軍すると、オレグが世襲領地権(ru)を持つモノマフ領のロストフスーズダリから退くことをイジャスラフに要求した。イジャスラフはロストフ・スーズダリ・ベロオゼロから、ムーロム防衛のための軍勢を集めて戦いに臨んだが、ムーロム近郊での戦闘で死亡した。イジャスラフの妻子に関する記録は残されていない。
なお、戦闘に勝利したオレグはムーロム・ロストフ・スーズダリを占領したが、ムスチスラフヴャチェスラフ(共にモノマフの子であり、オレグ同様ロストフとスーズダリを世襲領地とする権利を有した。)を長とするノヴゴロドペレヤスラヴリ・ポロヴェツの軍の攻撃を受けた。オレグは撤退と講和を余儀なくされた。最終的には、この領土をめぐる紛争は、1097年リューベチ諸公会議において、ロストフとスーズダリはモノマフの領土、ムーロムはオレグの領土とすることが承認された〔國本哲男『ロシア原初年代記』278頁〕〔アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史』93-94頁〕。
==出典==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (ムーロム公)」の詳細全文を読む




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